大阪ZQN化START!! 34067
誤解だらけの文禄・慶長の役 | ■↑▼ |
2016/04/01 (Fri) 20:26:26
反日日本人、自虐的日本人、在日朝鮮人によって
文禄・慶長の役、いわゆる朝鮮出兵が誤解されまくっている件について検証したい。
2016/04/01 (Fri) 20:33:44
最近、2ちゃんねるの嫌儲という掲示板で朝鮮出兵関連の
スレッドが立っていたのだが、その書き込みの多くが出鱈目のものばかりであった。
もっとも嫌儲の住民の質というのは大半が共産主義者、反日日本人、
オカルト電波人間、在日朝鮮人の巣窟なので仕方ないのであるが。
実際に書き込まれた書き込みを抽出して、誤りを指摘して訂正していきたい。
2016/04/01 (Fri) 20:36:15
147 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 8806-jYfD):2016/03/16(水) 02:54:55.26 ID:CY7qKkOU0.net[2/3]
どうでもいいけどスレタイの死者4~5万って完全な虚偽だろ
負傷含めて推定2~3万と記録されてるのに
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
168 :135 (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/16(水) 18:26:11.61 ID:lJi7Hcil0.net[1/2]>>147147 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 8806-jYfD):2016/03/16(水) 02:54:55.26 ID:CY7qKkOU0.net[2/3]どうでもいいけどスレタイの死者4~5万って完全な虚偽だろ
負傷含めて推定2~3万と記録されてるのに
いや、元記事は間違っているのは事実だけど、
じつは日本側の損害を過小評価している点で、間違っているんだよ
日本側の損害は、
文禄の役だけで、5~6万人というのが定説
当時、小西行長と大変関係が深かったフロイスが、
渡海した15万の将兵のうち、
三分の一の5万人が死亡したと記録している
この分野の第一人者、中野等氏もまた、
当時の諸記録から、このフロイスの話をうらづけているよ
「(文禄の役で)朝鮮で消息を絶った者の数は6万を超えることになる。
このうちには、逃亡したり、明・朝鮮軍に投降した者たちも含まれる」
(中野等 『文禄・慶長の役』 138頁)
2016/04/01 (Fri) 20:41:16
まず >>168が 第一人者と書いている中野等という人物について↓↓
日韓教育相表彰に九産大九州高と九州大
表彰を受け、ソウルのホテルで日韓両教育相と記念撮影する(右から)
中野等・九州大韓国研究センター長と武田寿一・九産大九州高校長
昨年の日韓国交正常化50年を記念して創設された第1回日韓教育相表彰に、
九州大韓国研究センター(福岡市)と九産大九州高校(同市)が選ばれ、ソウルのホテルで30日、授賞式があった。
長年の日韓教育交流の貢献をたたえるもので、日韓各3団体・個人が受賞した。
九州大から中野等センター長、九産大九州高から武田寿一校長が出席し、
日中韓教育相会合のため訪韓した馳浩文部科学相と、
韓国の李俊植(イ・ジュンシク)社会副首相兼教育相から表彰状と花束を受け取った。
九州大韓国研究センターは国公立大初の韓国研究施設。
1998年に訪日した当時の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相が九州大で講演、
これを機に99年設立された。
歴史や社会問題の日韓共同研究のほか、釜山大との間で学生が相互訪問し、
日韓関係を学ぶプログラムを実施している。
九産大九州高は73年から修学旅行でソウルを訪問し、現地の高校と交流。
訪韓した生徒数は今年、累計2万人を超えるという。
武田校長は「同窓生同士の付き合いもあり、長い交流になった。これからも息長く続けたい」と語った。 (ソウル植田祐一)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/221758
http://www.nishinippon.co.jp/import/f_toshiken/20160130/201601300005_000_m.jpg
2016/04/01 (Fri) 20:48:07
中野等の著作で問題点が多いが、3例ほど提示したい。
その1
中野等は著書内においてなぜか慶長2年2月21日の秀吉軍令の
「一 赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。」
↑これだけ提示して
↓は隠している。
「一 右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。」
慶長の役が日本軍の計画通りだったことを態々隠すような行為。
その2
朝鮮側の記録である李舜臣の乱中日記、李朝実録からは
慶長2年に全羅道の海域は日本水軍によって制圧されていたことが
読み取れるが中野等は【日本軍の水陸併進計画】を防いだと
ありもしないことも書いている。
その3
文禄・慶長の役では朝鮮民衆の多くが、日本軍に味方したり、
日本軍統治区域に逃げ込んだり、日本文化に積極的に同化したりと親しくなっている
という記録が多数、朝鮮側に残っており、当時の朝鮮政府も
その対策に頭を悩ましている。
しかし、中野等はそれらには一切触れずに、慶長の役の日本軍の統治が
強制、高圧的なもののみであったかのように印象操作している。
2016/04/01 (Fri) 20:51:56
日本国では反日・自虐日本人と外国勢力が、
いわゆる慰安婦問題、いわゆる南京大虐殺といった諸々の反日工作が
展開されてきたが、いまになってそれらが虚構のものであったことが暴かれている。
しかし、一昔前では「専門家」「第一人者」と呼ばれていた連中が、
虚構をばらまいていたことは記憶に新しい。
中野等氏を第一人者と呼ぶには、大いに疑問を感じる物である。
2016/04/01 (Fri) 21:01:13
中野等は降倭(明や朝鮮に降った日本人)が一万と、
著書に記しているが、「一万」という数字は
文禄の交渉期間中に日本人と朝鮮人の役人と会話に残っている記録であり、
しかも日本人が「半島に降った日本人は一万というが実数はどれくらいか?」と
朝鮮の役人に質問したのが真相である。
朝鮮側の記録でも、降倭の人数は明らかではなく、朝鮮側自身の記録には
~5000人との記述しか残っていない。
しかし、中野等は文禄期に1万人の降倭がでたと決めつけているのである。
2016/04/01 (Fri) 21:05:17
次に移りたい
158 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 5f06-FnqI):2016/03/16(水) 05:25:18.22 ID:PuFtOC1a0.net
朝鮮人も中国人も刀を倭人に持たせると手に負えないとか語ってるのな。
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
169 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/16(水) 23:05:19.04 ID:lJi7Hcil0.net[2/2]
>>158
その手のコピペを鵜呑みしたらアウチ
よく戚継光の著作からの引用が見られるけど、
じつは戚継光って、
文禄・慶長の役の前に亡くなっているんだ
つまり、彼が言及しているのは、あくまで倭寇についてなんだよね
じゃあ、朝鮮役における日本の近接戦能力についてはどうか、
と言えば、
明の正規軍は優れたアーマーを装備していたので、
いまいち有効ではなかったりする
実際、フロイスが次のような記録を残しているよ
「彼ら(明兵たち)は身に適当な厚さの鋼鉄で作った鎧をまとい、同じく鋼鉄製の肘当てをつけていた。
それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり、どこも皆、見事につくられ、
きわめて強靭な部品で覆われていたので、
従来発見されたものの中では最優秀さを誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、
何ら損傷を加え得なかった」
(松田毅一・川崎桃太編訳 『秀吉と文禄の役 フロイス「日本史」より』 123-124頁)
2016/04/01 (Fri) 21:07:55
さてフロイスの日本史を引用しているが、ID:lJi7Hcil0のズルいところは、
同じフロイスの記述の平壌攻防が書かれた小西軍は度重なる戦いで
刀槍が鈍っていたという記述を併せて載せていないところ。
そして鉄砲が使えないほどの接近戦になったが、
小西軍は明軍を撃退したことも書いていないことはとても卑怯。
そして平壌戦いの後に行われた碧蹄館の戦いで、
その重装甲の明軍騎兵が、日本刀にバッサバッサと斬られたことが
朝鮮側の記録に残っている。
これも載せないのも卑怯。
文禄2年に1000人の明軍が20名ほどの秀吉兵の刀による切込みに遭って
斬られまくって200名以上の死傷者をだした戦闘が朝鮮側の記録に残っている。
最後に付け加えると、明軍はその後、南原攻城、稷山戦、第一次蔚山、
第二次蔚山、順天、四センの戦いで、すべて日本軍に負けている。
2016/04/01 (Fri) 21:12:33
次に移りたい
47 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイW 5752-8UBt):2016/03/15(火) 00:59:11.26 ID:UBbVTAAl0.net[1/2]
李舜臣という偉人を産んだんだが?
49 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイW d24a-f2sn):2016/03/15(火) 01:02:43.26 ID:aUFZKaUN0.net
>>47
島津に瞬殺されたが?
↑↑というやり取りにに返信がついた↓↓
61 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/15(火) 02:18:58.09 ID:lLUdCD8H0.net[1/6]
>>49
・・・愛国ブログや愛国本で、歴史を学んだ気になるのは超アウチ
せめて文庫化された、
村井章介氏の 『世界史のなかの戦国日本』を読んでみよう
文庫版では付章で、有名な泗川の戦いや露梁海戦の様子が、
島津側の史料をもとに考察されている
そして、
李舜臣が戦死した露梁海戦で、
島津側こそ大ピンチに陥っていたことがハッキリわかるよ
2016/04/01 (Fri) 21:22:30
指摘を始める
露梁海戦は、秀吉が死亡し遠征軍が次々に日本へ帰還しており、
明軍と小西行長で講和がなされていたが、講和を無視した朝鮮水軍と明水軍が襲い掛かった戦いである。
交戦した明・朝鮮軍は日本側の2倍の兵力を有しており、
当然ながら明・朝鮮側が有利だったが、明軍は副将の鄧子龍が打ち取られ、
朝鮮軍は李舜臣以下10名が打ち取られた。
日本側は小西行長軍が海域から脱出し、救援に来た島津義弘軍も脱出し、
釜山方面へ向かい、日本へと帰還していった。
ID:lLUdCD8H0はこれらの損害について伏せているのはどういうことだろうか。
2016/04/01 (Fri) 21:25:31
41 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワントンキン MM4c-8UBt):2016/03/15(火) 00:53:58.81 ID:C1Dn4Tz+M.net
日本軍は鉄砲が多かっただけで、白兵戦では騎兵が多い明の方が圧倒的だった
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
65 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/15(火) 02:50:03.46 ID:lLUdCD8H0.net[3/6]
>>41
そうでもない
騎兵主体の明軍を迎え撃った碧蹄館の戦いでは、
日本軍が勝利している
平壌の戦いからずっと敗走を続けていた日本軍は、
この勝利で持ち直し、
漢城(ソウル)に主力を集めて、南下する明軍をけん制したんだ
基本的に朝鮮役は数がものをいう戦いなんで、
実は兵の優劣はあまり出ていない
そして優劣が露骨に出たのは、要塞建造能力だったりする
半島に建てられた日本軍の城、いわゆる倭城はずば抜けて優秀で、
明・朝鮮側が陥落させることができたケースは一つもない
元記事で称揚されている島津の勝利も、
泗川の戦いで、
どえらく優秀な日本式城郭に籠城した島津軍と明軍との戦いなんだ
泗川の戦いは、島津軍が籠城した日本式城郭を落とそうとした明軍が、
消耗して撤退したところを、
島津軍が後方から襲いかかったというのが実態
2016/04/01 (Fri) 21:39:15
指摘したい。
平壌の戦いからずっと配送を続けていたとあるが、
明・朝鮮軍の6万が1万足らずの小西行長を騙し討ちにしたのが、
1593年1月初めの平壌城の戦い。
碧蹄館の戦いは1593年1月末に行われたものであり、
平壌戦から碧馬館の戦いの間に大きな戦闘は起きていない。
ID:lLUdCD8H0はいったい、なんの捏造本を読んだのだろうか?
先にも記したが文禄2年に1000人の明軍が20名ほどの秀吉兵の刀による切込みに遭って
斬られまくって200名以上の死傷者をだした戦闘が朝鮮側の記録に残っている。
また第一次蔚山城戦、第二次蔚山城戦、順天城戦、泗川城戦では
日本側も積極的に打って出ており明軍に損害を与えている。
また順天、泗川城は攻城戦に入る前に、日本軍が数的に不利な状態で
野外戦も行われており、明軍は大きな損害を受けているのが朝鮮側の記録で確認できる。
繰り返しになるが、以上のことから、日本軍は数的に不利な状況で
野外戦もおこなっても明軍に損害を与えているのは実証済み。
2016/04/01 (Fri) 21:40:48
69 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 8a06-WbMV):2016/03/15(火) 02:58:58.82 ID:v7KAMQAF0.net[1/2]
ボコボコにされて侵略されまくったのが朝鮮なのにな
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
71 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/15(火) 03:15:38.97 ID:lLUdCD8H0.net[4/6]
>>69
朝鮮側も義兵(ゲリラ)戦で対応しており、日本の敗北をもたらした一因となってるよ
日本側の物資揚陸地点である釜山から、
日本軍の主力が集まっていた漢城(ソウル)までの街道にはゲリラが横行し、
フロイスの記録によれば、
500人以下の輸送部隊は必ずゲリラに襲撃されるような状況だったりする
その朝鮮ゲリラたちの重要拠点になっていた晋州城攻略に、
日本軍は失敗
おかげで漢城にいた日本軍主力は飢え死に寸前になり、
独断で明軍と停戦交渉をはじめている
2016/04/01 (Fri) 21:48:04
指摘したい
まず遠征軍の諸将が1593年の3月に出した書状では、
食料は統治しているソウルに届いていると記されている。
遠征軍の書状と、ID:lLUdCD8H0が使用しているフロイスの記録を見てみると、
補給が滞り気味になったのは地形地物の険阻さ、補給隊の往復の兵糧消費、冬季到来による
船舶の渡航制限&陸上部隊の移動制限であると、当時の諸将の報告書に残っている。
二つの記録にも朝鮮水軍や義兵のことは記されていないのが事実である。
補給に苦しむのは当時の外国の各種戦争においても類似例は多数ある。
むしろ文禄2年から慶長3年の間、3万~20万の遠征軍の補給を
日本からの単独渡航だけで賄っていたことは、軍事史においても特筆してもよいレベル。
>>9でも指摘したが同じ資料の都合の悪いところを伏せて、
日本を批判するものがいるということである。
2016/04/01 (Fri) 21:51:02
132 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (オッペケ Sr81-GnB6):2016/03/15(火) 12:51:10.12 ID:3B7F61R+r.net
秀吉の朝鮮出兵当時、日本の軍事力が世界最強クラスだったのは間違いない。特に陸軍は世界最強だった。
日本武士は、朝鮮を全く問題視せず、明との戦いの為の露払いにしようとしたが、朝鮮はそれを拒否、怒った日本軍は朝鮮を蹂躙、
朝鮮軍は雑魚だったので日本軍にメタメタにされた。
朝鮮の降服は時間の問題だった。だか、予想外の事が起きる。名将、イ・スンシの登場である。
イ・スンシは日本軍の唯一の弱点だった補給線に目をつけ、海戦でそれを叩いた。
効果は目覚ましく、武器弾薬食料の補給を絶たれた日本軍は大混乱に陥った。
結果、徹底を余儀なくされた。
133 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 6990-sWz4):2016/03/15(火) 17:25:56.86 ID:2j3XeL760.net[2/2]>>132
うまくいったのは最初の数回だけで
その後の勝率は1割以下じゃねーか
ボッコボコにやられたくせにプライドだけは高いから英雄扱いされてるだけで
↑↑というやり取りにに返信がついた↓↓
135 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/15(火) 22:27:52.06 ID:lLUdCD8H0.net[5/6]
>>133
李舜臣はガチですぐれた提督だよ
文禄の役では、閑山島海戦の朝鮮水軍の勝利によって、
とられたことを秀吉は把握し、
すぐに海上戦闘を禁じている
慶長の役では、 136 :135 (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/15(火) 22:50:05.16 ID:lLUdCD8H0.net[6/6]
東芝のノーパソとwindows8の組み合わせは最悪・・・
>>135が意味不明なので連投すると
文禄の役では、閑山島海戦の朝鮮水軍の勝利によって、
海上優勢をとられたことを秀吉は把握している
だから、すぐに日本水軍単独による海上戦闘を禁じているんだ
そして海上優勢をとった朝鮮水軍に日本側超重要拠点の釜山が襲われないよう、
徹底した城塞化がおこなわれている
つまり、それだけ秀吉は朝鮮水軍の優位をちゃんと把握していたんだ
慶長の役では、
役勃発直後の巨済島の海戦で朝鮮水軍主力が全滅
にもかかわらず、李舜臣は少数の船を率いて、
半島西海岸を北上する日本水軍にゲリラ攻撃を敢行したんだよ
この、いわゆる鳴梁海戦において、
来島通総は戦死、
藤堂高虎と毛利高政は負傷と、
日本側の中枢部を叩いた李舜臣の率いる少数の艦艇は、無傷で離脱
そしてこの戦いの後、日本水軍による半島西海岸の北上は停滞、
つまり日本側は西海岸の制海権確保を放棄しているんだ
その結果、
応援に来た明水軍が、半島西海岸の制海権をただちに把握することになったんだよ
2016/04/01 (Fri) 21:55:19
指摘したい。
1・当時の日本の船は、竜骨がなくて外海に向いていない。
2・日本統一後の政策で、水軍衆は大きい船を作ることができなかった。
3・水戦を想定しておらず九鬼、脇坂、藤堂といった水軍の将は陸に上がって戦っていた。
文禄元年4月から、朝鮮水軍は単独の日本水軍を攻撃して戦果を挙げていたが、
早々に秀吉軍は、大鉄砲、大筒を使用し陸上戦力と船の組み合わせで、
朝鮮水軍を迎撃するようになると 朝鮮水軍の被害は増え、出撃回数も激減した。
九鬼水軍に船をぶんどられたり、福島正則指揮の日本船に反撃され焼き払われたりしている。
当時の、日明鮮の三ヶ国と宣教師の記録に、李舜臣のせいで補給が切れたなんて、
記録は一切出てこない(義兵も同様)
引用
唐武陣 文録・慶長の役の偏り5 中国(明)・朝鮮から見た日本の船
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
先にも書いたが、>日本水軍による半島西海岸の北上は停滞
は完全に嘘であり、朝鮮側の記録では日本水軍は鳴梁の遙か北にまで
進出している。
2016/04/01 (Fri) 21:57:42
172 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 6306-8xVp):2016/03/17(木) 01:50:28.10 ID:HaFquufI0.net
>>169そんなたいそうなもの着てたのに倍の兵力で日本軍を攻めて
負けたのか明軍 ( ※注 この指摘スレでは>>8に記載の内容)
↑↑というやり取りにに返信がついた↓↓
174 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 8f7a-sNCn):2016/03/17(木) 11:45:04.66 ID:jlrym2Rr0.net
>>172
明軍が数で優っているのに日本軍に敗北したケースは、攻城戦の場合だけだよ
>>65でも書いたけど、
日本式城郭は当時、東アジア最先端の要塞
まして攻城戦自体が非常に難しいのは、
日本側が10倍ちかい兵力で攻撃し、
けっきょく朝鮮兵に敗れた第一次晋州城の戦い、幸州山城の戦いを見ても明らか
2016/04/01 (Fri) 22:02:17
指摘
先にも書いたが、
先にも記したが文禄2年に1000人の明軍が20名ほどの秀吉兵の刀による切込みに遭って
斬られまくって200名以上の死傷者をだした戦闘が朝鮮側の記録に残っている。
また第一次蔚山城戦、第二次蔚山城戦、順天城戦、泗川城戦では
日本側も積極的に打って出ており明軍に損害を与えている。
また順天、泗川城は攻城戦に入る前に、日本軍が数的に不利な状態で
野外戦も行われており、明軍は大きな損害を受けているのが朝鮮側の記録で確認できる。
繰り返しになるが、以上のことから、日本軍は数的に不利な状況で
野外戦もおこなっても明軍に損害を与えているのは実証済み。
>まして攻城戦自体が非常に難しいのは、
>日本側が10倍ちかい兵力で攻撃し、
>けっきょく朝鮮兵に敗れた第一次晋州城の戦い、幸州山城の戦いを見ても明らか
これも事実とはかなり違う。
改めて指摘したい。
2016/04/01 (Fri) 22:14:18
>まして攻城戦自体が非常に難しいのは、
>日本側が10倍ちかい兵力で攻撃し、
>けっきょく朝鮮兵に敗れた第一次晋州城の戦い、幸州山城の戦いを見ても明らか
晋州城の戦いは遠征軍2万人と城内の朝鮮軍3800人、場外の朝鮮軍3700人の7500名である。
10倍は嘘であり3倍である。
攻城軍が引き上げを決めた際は整然と移動し、
その途上で支隊を派遣して朝鮮軍の拠点や部隊を撃破しながら根拠地に到達した。
幸州山城に関してもだけど日本勢に切り込まれて落城寸前のときに、
朝鮮の船40程が河川に偶然に現れたので、
日本軍の諸将が会議を開いて慎重策のために、
遠征軍の将たちは
日も暮れてきたしどうせ城も落とせるのだからと
一旦、後退。
翌日に物見を派遣したおり、敵が夜のうちに逃げたのがわかり、
大名たちは用心に過ぎずに一挙に攻めておけば・・・
と悔しがった。
城の朝鮮軍は当然、それ以上城を保持できるハズもなく、
すぐに城を放棄して逃走。
これが幸州城の戦いの顛末。
城攻めで大敗した明軍と違って、日本側は余力が十分にあって、
整然と引き上げているのが特徴。
2016/04/01 (Fri) 22:16:19
他にも気になる所はあるけど、
今回はここまでしたい。
元スレッド
朝鮮出兵で渡海した日本兵20万 死者4、5万 何も得ず撤退 どう考えても敗戦でしょ…
http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1457964755/
2016/04/07 (Thu) 11:50:48
今回も嫌儲の文禄・慶長の役関連のスレッドの
トンデモ、偏向、ねつ造の書き込みの誤りを正したい。
134 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (アークセー Sx85-sgiK)[] 投稿日:2016/03/26(土) 13:04:23.08 ID:zE3lFy8tx.net [2/2回]
補給がなくなったから後退したりとか何度もしてるが
戦自体はマジでわけわかめ状態で無双してるからね
無双というか連勝ね
島津が7000の兵で20万の明朝鮮の兵の打ち破り8万人を討ち取ったとかわかわからん状態だし
それで秀吉死んだから撤退するわって
マジでこいつら何しにきたのって思うわなw
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
152 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 15:03:20.46 ID:p2vKvtG+0.net [1/9回]
>>134
・・・歴史について語りたかったら、なによりもまず基本書を読もう
この分野の必読基本書は、中野等氏の『文禄・慶長の役』
中野氏のこの本を読むと、そんなネットde真実は言えなくなるし、
朝鮮の義兵(ゲリラ)相手にすら、日本軍が大苦戦していたことが分かるよ
2016/04/07 (Thu) 11:55:16
指摘はたい。
まず中野等が信用に値しない人物ということは>>4と>>5で
明らかになっているので見てほしい。
>朝鮮の義兵(ゲリラ)相手にすら、日本軍が大苦戦していたことが分かるよ
朝鮮側の記録わ読めば明らかだが、文禄元年の夏以降から翌年の間にかけて
各地の義兵は遠征軍にたびたび討伐されて急速に弱体化していた。
また全羅には地用船軍や義兵が集まっていたが文禄元年の冬には
食料の欠乏、病、逃亡で瓦解しかけていた。
中野等は朝鮮側に都合の悪いことを隠すのは>>5で見る通り。
2016/04/07 (Thu) 11:58:43
160 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 16:15:46.66 ID:p2vKvtG+0.net [2/9回]
>>151
加藤清正を主役にすればけっこう良いドラマができると思われ
唐入り(明侵略)を狙った文禄の役において、加藤は、
山海関を迂回するために満州ルートを探り、後に清王朝を築く女真族と戦っている
もはや唐入りをあきらめ、ひたすら朝鮮南部の掠奪にはげんだ慶長の役は、
日本側から見たらただの泥沼、
明側から見たら国費のムダ使い、
朝鮮側から見たら悪夢の極みとしかいいようのない戦役だったが、
その時も加藤は武将らしく行動し、
第一次蔚山攻防戦で、逃げることができたのにわざわざ蔚山城に入って、籠城軍に参加している
そして絶望的な状況になり、もう降伏して城をあけわたすしかない、という瞬間、
やっとこさ日本の援軍が到着するなど、
加藤率いる第一次蔚山城防衛戦はとにかくドラマチック
非常によく統率された明軍に対して、水も食糧もなしに加藤たちはよく戦ったべ
http://bunnroku.wiki.fc2.com/upload_dir/b/bunnroku/b0d9dcda8dbde4864d394c7e5ccdf2d6.jpeg
↑蔚山で包囲されまくりの加藤
http://bunnroku.wiki.fc2.com/upload_dir/b/bunnroku/d569c5a9e0e06fd0da03baae01f423c4.jpeg
↑日本の援軍と対峙する明軍(整った明軍の陣形が実に印象的。当時の日本軍が、明軍から受けた印象がよく絵に出ていると思われ)
161 : I am not Abe (ガラプー KKbb-s1rT)[age] 投稿日:2016/03/26(土) 16:21:03.78 ID:/fMN7HllK.net [1/1回]
>>160
加藤が勝手に突っ込んで、小西だったかに報告受けたサルが激怒してなかったか?
164 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 16:57:22.64 ID:p2vKvtG+0.net [3/9回]
>>161
加藤はむやみ同陣営内で敵を作っていたり
イケイケの加藤が朝鮮北部からなかなか撤退しなかったことは、
小西でなく、石田三成らにチクられてる
実は朝鮮派遣軍の参謀本部ともいうべき、
漢城(ソウル)にいた朝鮮奉行(石田三成、大谷吉継、増田長盛)から、
加藤はさっさと朝鮮北部から撤兵しろ!という命令が出ていたりする
これを加藤はガン無視
部下が北方で包囲されていたため、撤退命令を受けていたはずの加藤は自ら救援に向かってる
しかし、釜山ー漢城(ソウル)ルートという、日本軍の超重要補給路を妨害する晋州城攻略に細川が失敗したため、
晋州城攻略に加藤を派遣させるつもりだった、という石田らの主張は筋が通っており、
撤兵を遅らせた加藤がアホだったのは事実
実際、晋州城から出没するゲリラのために補給線が断たれてしまい、
漢城(ソウル)に集結していた日本軍主力は飢え死に寸前になり、独断で講和交渉をはじめている
↑↑というやり取りがあった
2016/04/07 (Thu) 12:02:50
指摘したい
まず160は文禄の役と慶長の役は、そもそも目的が違う事を理解していない。
文禄の役と慶長の役の必要最低限の流れを掲載する。
文禄の役は遠征軍が平壌まで進軍後、
統治のために進軍を停止する。
その間に加藤清正軍は朝鮮島北部に進軍、
小西行長軍が統治する平壌には、明軍が攻め込むが撃退する。
そうして明側の沈遊撃が小西行長と和平交渉をして、
50日間の休戦協定が結ばれた。
しかし、明の朝鮮派兵のための時間稼ぎであり、
小西行長を欺くための罠だった。
たびたび交渉を行ったので、実質は50日以上の期間になり、
こうして文禄2年の1月に明軍43500人と朝鮮軍17000が
一万人前後の小西軍を騙し討ちにする。
しかし、明朝鮮軍は小西軍が立て籠もる平壌城を
占領することができず、開城勧告を行いようやく城を奪還する。
明軍の死傷者は3000人 朝鮮軍不明
明軍が得た首級は1285だが、半数は朝鮮人の首で水増しという情けないものだった。
こうして明軍は、遠征軍が統治しているソウルに向かうが、
碧蹄館で遠征軍の猛烈な反撃にあい大敗北を喫する。
朝鮮入り後、わずか3ヶ月足らずで明軍は15000人近くの兵員を失い、
厭戦気分が漂った明側が、日本に和平交渉をおこなう。
交渉の結果、明側が二人の人質を出して、日本に和を乞うという形で
纏まったので遠征軍は、莫大な物資が届けられている釜山周辺に移動したわけ。
これが文禄の役の経緯。
2016/04/07 (Thu) 12:03:56
慶長の役の目的は、慶長2年に全羅道と忠清道の討伐と
半島南部で築城及び迫る敵の迎撃。
蔚山攻防では明朝鮮軍は17000人以上の損害をだして敗退。
これはすべて日本側の戦略戦術通りに進んだ。
慶長3年は遠征軍の一部は日本本土に帰還して休養し、
残った一部の部隊は、1月から夏にかけて全羅道と慶尚道で、
10回以上も攻勢にでている。
また明朝鮮軍が12万近くを動員して蔚山、順天、シン川に
攻め込んできたが朝鮮側の記録で【人が溶けた】と表現されるほどの大敗を喫した。
太閤秀吉が亡くなったので、遠征軍は逐次、日本本土へ帰還するが、
明軍、朝鮮政府と遠征軍の間で、攻撃をしない了解がとられていたが、
朝鮮水軍の李舜臣と明水軍が小西行長軍の追撃にでる。
小西軍救出のためにきた島津軍と海戦になり、
大将の李舜臣以下配下武将も10名が戦死し、明軍も副将が戦死した。
慶長4年には、遠征軍は首都ソウルを目指した一大攻勢も予定されており、
余力は充分にあったわけで、勝利の可能性がないなんて言う奴もいるが嘘もいいところ。
李氏朝鮮の終戦後の記録に、わが軍は倭軍の陣営を一つも落とすことができなかったし
このまま秀吉軍が半島にいたら、もう打つ手はなかったと総括している。
明の将軍も朝鮮王・宣祖に日本軍は秀吉が死んだから帰っただけで、
また強力な軍勢でやってくるから防備をしたほうが良いと進言している。
明・朝鮮側は勝ったとはこれっぽっちも思ってないのであった。
2016/04/07 (Thu) 12:18:58
それでは細かいところの誤りを正していきたい
>非常によく統率された明軍に対して、水も食糧もなしに加藤たちはよく戦ったべ
>160が何を以て明軍は統率されていたと書いてあるのか知らないが、
朝鮮の記録では明軍の諸将同士は、仲が悪かったり
味方部隊が日本軍の攻勢を受けたりしているときに救援に赴かなかったりの
記述が少なくない。
日本軍も慶長の役で10万近い軍勢を右軍と左軍に分けて、
全羅道と忠清道に進軍し、連絡を密に取り合いながら拠点や敵部隊を掃蕩している。
恐らく160は江戸時代の実戦経験のない軍学者の手記を参考にしたのだろうが、
文禄慶長に従軍した武士たちは、明軍が兵士を団で構成して動いていたのが珍しく見えただけで、
殆どの戦闘で日本側が勝利している。
実際、古代の韓信の軍規の厳しさ、八路の三代規律等があるが、
これらは日本では日々の生活の道徳上程度の規則であるが、
中国では、それで統制しなければならないほど無秩序で無法行為を働く性質をもっている。
これは現代でも中国人を見れば一目瞭然であろう。
2016/04/07 (Thu) 12:33:07
とくに重大な誤りをしたい。
>実際、晋州城から出没するゲリラのために補給線が断たれてしまい
>漢城(ソウル)に集結していた日本軍主力は飢え死に寸前になり、独断で講和交渉をはじめている
遠征軍一番隊である小西行長軍の将兵から聞き取りした宣教師フロイスの記録では、
人手不足、地形の険阻、補給部隊の往復の食料消費、
冬到来による船舶の渡航制限・陸軍の移動制限と記されていて、
春が到来したら補給が再開されて、遠征軍の橋頭保の釜山には、
莫大な物資で埋め尽くされていると記されている。
また文禄2年3月(4月)に首都ソウルから遠征軍諸将が日本本土へ発した書状には、
冬の間でも前線付近のソウルにまで食料は届いてはいるものの、
地形の困難さや人手不足とフロイスの同様の記録が残っている。
日本や宣教師の記録、そしてとうの明朝鮮側の記録にも、
義兵や朝鮮水軍のせいとは記録されていない。
さきの繰り返しになるが朝鮮側の記録の読めば明らかだが、文禄元年の夏以降から翌年の間にかけて
各地の義兵は遠征軍にたびたび討伐されて急速に弱体化していた。
また全羅には地用船軍や義兵が集まっていたが文禄元年の冬には
食料の欠乏、病、逃亡で瓦解しかけていた。
2016/04/07 (Thu) 12:37:58
175 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ d9eb-vHhq)[] 投稿日:2016/03/26(土) 18:18:12.12 ID:F4/Vx4TD0.net [1/6回]
あまりにもチョンが弱いからと各隊別々に進軍したのがいけなかった
明対策のために確固たる拠点を上陸地点築くべきだった
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
177 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[] 投稿日:2016/03/26(土) 18:50:20.13 ID:p2vKvtG+0.net [4/9回]
>>175
・・・明に侵略するのはこっちなんで、最大の問題は、
山海関(朝鮮、満州から中国に入る際の最初の要害)をどう攻略するか、というものになるハズだったんだよ
しかし、明どころか朝鮮ゲリラにも苦戦して、
半島南端の沿岸部に要塞を築き、けっきょく守勢に回ったというのが朝鮮役の実態なんだ
(※>>177は完全に文禄・慶長の役を理解していない 25と26を参照されたい)
2016/04/07 (Thu) 12:40:26
178 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ d9eb-vHhq)[] 投稿日:2016/03/26(土) 19:06:32.29 ID:F4/Vx4TD0.net [2/6回]
>>177
なんでそう思ったの?文禄の役と慶長の役を合わせて日本側の死者は5万
しかもほとんどが病死、餓死だったと言われている
一方で敵対勢力の明と李氏朝鮮の損害は両役合わせて数十万人と言われている
明らかに戦闘の問題ではなく戦力の分散と
策源地の距離が遠すぎたことが撤退の原因
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
180 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 19:49:56.37 ID:p2vKvtG+0.net [5/9回]
>>178
文禄の役だけで、死者・行方不明者は5~6万人にのぼるというのが定説
小西行長と関係が深かったフロイスは、
文禄の役の死者をおよそ5万と記録しており、
この数値は渡海・帰国データーを付き合わせた現代の研究者も裏付けている
「(文禄の役の際)朝鮮で消息を絶った者の数は6万を超えることになる。
このうちには逃亡したり、明・朝鮮軍に投降した者たちも含まれるので、戦没者は5万人強」
(中野等 『文禄・慶長の役』 138頁)
こうした定説すら知らないのに、
朝鮮役についてあれこれ主張できると君が判断できるのはどうしてなの?
2016/04/07 (Thu) 12:41:55
指摘したい
文禄の役、日本側戦死者数算定方法の不適切さについて
文禄・慶長の役開始前の陣立書に書かれた人数から、
晋州城攻撃時等の陣立書に書かれた人数を差し引いた数値を日本側戦死者数のように
主張するものがあるが、こうした単純な引き算による戦死者数算定は
国内に送り返された者の人数を考慮していないものであり不適切である。
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/04/blog-post_28.html
中野等氏が信用できないことは、先の書き込みを見てもらいたい。
また中野等は降倭(明や朝鮮に降った日本人)が一万と、
著書に記しているが、「一万」という数字は
文禄の交渉期間中に日本人と朝鮮人の役人と会話に残っている記録であり、
しかも日本人が「半島に降った日本人は一万というが実数はどれくらいか?」と
朝鮮の役人に質問したのが真相である。
朝鮮側の記録でも、降倭の人数は明らかではなく、朝鮮側自身の記録には
~5000人との記述しか残っていない。
しかし、中野等は文禄期に1万人の降倭がでたと決めつけているのである。
2016/04/07 (Thu) 12:42:56
181 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ d9eb-vHhq)[] 投稿日:2016/03/26(土) 20:12:41.77 ID:F4/Vx4TD0.net [3/6回]
>>179
文禄・慶長の役で君の言う
「朝鮮ゲリラ」がどのように活動していたか示すソースはありますか?
16世紀に朝鮮でゲリラ戦が展開されていたなんて聞いたこともないよ
↑↑という書き込みに返信がついた↓↓
182 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 20:17:32.50 ID:p2vKvtG+0.net [6/9回]
>>181
聞いたこともないって・・・
あのね、歴史について語りたかったら、なによりもまず基本書を読もう
たとえば文禄の役で、日本軍主力が飢え死に寸前になったのは、
漢城(ソウル)への補給すら維持できなかったことがポイントだった
まず、釜山-漢城への補給ルートの妨害拠点に、
慶尚道の大鎮、晋州城がある
そして日本軍は晋州城を攻略したものの、金時敏ひきいる朝鮮軍の奮戦により攻城は失敗したんだ
「この敗戦(第一次晋州城の戦い)は、日本側にとって朝鮮経略の失敗を象徴するものであり、
とりわけ深刻に受け止めざるをえなかった。木村重茲、長谷川秀一、細川忠興らはその責任を問われて、
秀吉に厳しく譴責された。なかでも木村重茲については改易の噂さえ流れている」
(中野等 『文禄・慶長の役』 90頁)
さらに漢城郊外には幸州山城があり、
ここから出没する義兵(ゲリラ)が、漢城への乏しい補給をより困難にしていた
そこで日本軍は主力をもって攻城するが、わずか2300名の朝鮮正規軍、義兵が奮戦して、撃退に成功している
「(幸州山城の戦いで)朝鮮の兵力が独力で圧倒的多数の日本勢を破ったことの意味は大きい。
正確な数字は伝わっていないが、この城攻めで日本側はかなりの死傷者を出し、
大将宇喜多秀家をはじめ、吉川広家、石田三成、前野長康らまで負傷するという状態であった」
(中野等 『文禄・慶長の役』 104頁)
こうして日本軍は補給ルートの確保に失敗し、
街道には朝鮮ゲリラが横行したことをルイス・フロイスは記録に残している
釜山から漢城(ソウル)へのルートですら、300名以下の部隊だとやられる、と書いているくらいだよ
「釜山浦から(高麗の)都までの道中は、日本兵は300名足らずの隊員では、(危険で)通行しかねる状態であり、
都からアゴスティーニュ【小西行長】がいる所(平安)までは、500名以上が集団となって歩く必要があった」
(松田毅一・川崎桃太編訳 『秀吉と文禄の役 フロイス「日本史」より』 117頁 カッコ内は松田・川崎による注 )
2016/04/07 (Thu) 12:48:02
指摘したい
まず義兵が割合、積極的に動けたのは初期の頃だけで、
朝鮮側の記録の読めば明らかだが、文禄元年の夏以降から翌年の間にかけて
各地の義兵は遠征軍にたびたび討伐されて急速に弱体化していた。
また全羅には地用船軍や義兵が集まっていたが文禄元年の冬には
食料の欠乏、病、逃亡で瓦解しかけていた。
遠征軍一番隊である小西行長軍の将兵から聞き取りした宣教師フロイスの記録では、
人手不足、地形の険阻、補給部隊の往復の食料消費、
冬到来による船舶の渡航制限・陸軍の移動制限と記されていて、
春が到来したら補給が再開されて、遠征軍の橋頭保の釜山には、
莫大な物資で埋め尽くされていると記されている。
また文禄2年3月(4月)に首都ソウルから遠征軍諸将が日本本土へ発した書状には、
冬の間でも前線付近のソウルにまで食料は届いてはいるものの、
地形の困難さや人手不足とフロイスの同様の記録が残っている。
日本や宣教師の記録、そしてとうの明朝鮮側の記録にも、
義兵や朝鮮水軍のせいとは記録されていない。
2016/04/07 (Thu) 12:50:49
幸州のゲリラがソウルの補給を脅かしたと書いてあるが、、
それも嘘で、遠征軍に猛攻を受けた前後は開城周辺、全羅道、慶尚道の朝鮮軍と義兵は
秀吉軍の討伐を受けたり、士気の低下、飢え、逃亡、凍死、病で潰滅的になっていた。
補給路なんて脅かすことは不可能だったわけ。
↓↓最後 コピペからだけど、案の定朝鮮側が騒ぐような大した戦いではなかったようだ。
俗に言う朝鮮出兵の戦いで、朝鮮側の三大大捷
と呼称されている勝利のひとつに、幸州山の戦いがあります。
幸州戦の記録で、当時に書かれたという意味で、一番信頼できる朝鮮の乱中雑録1にはこうあります
(後代になるほど朝鮮側は潤色され派手になります)
矢や石を浴びせ、日本軍も三度進み三度引いたが、火が回り城の柵も燃え落ち、
矢も尽き、日本軍に切り込まれて落城寸前だったとあり、白兵戦の最中に
全羅道の漕船40隻が現れて声援を送り、日本軍は一旦引いたとあります。
朝鮮の丁傑の救援の2艘が現れた。
小西、大谷、黒田ら8将が 秀吉に宛てた文禄2年2月18日発の書状でも、
「この丸に責入数百人切捨、本城土居付而相戦申候へば、少少手負出来候間」とあり、
乱中雑録でも朝鮮側の戦果が130頸とあり、
現在言われているような派手な勝利?ではなく少なめであり、
そして日本側の数百人切捨と、乱中雑録1のあわや落城かという
双方の記録が一致しています。
ちなみに宣祖実録では、3度進み3度引いた後の
日本軍の死者は数十人、負傷者は100人 とあります。
朝鮮の記録だけで見ても、日本軍の死者は200人前後で、 負傷者は100人になります。
乱中雑録では、日本軍が引いたところで
記録が終わっていますが、同書状では、
諸将が城に対して夜責めでもしようと協議している間に
17日に朝鮮軍が城を焼いて逃げたとあります。
この書状は、権慄が城を焼いて放棄した翌日の18日に発せられているので、
日本軍は城の近くにいたことがわかります。
同時期の懲�童録も、この戦いについては簡潔にしているだけであり、
特筆するとすれば、幸山城の指揮官であった権慄が命令を出して、
日本兵の死体をズタズタにして、木に掛けたという箇所ですか。
town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffc8zt4wig
town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffczua79gm
漕船の人員は不明だが、漕船と称していることから、
それなりの収容数が推測が可能。
板屋船より少なめに見積もって、
戦闘員30名と計算しても1200名ほどになる。
乱戦さなかで敵情も不明の中で、一旦、
引かせた日本将の判断はきわめて妥当。
まとめとして攻城軍が息切れしたとか、ましてや城の朝鮮軍が日本軍を
追い返したということはありえないというのが真相。
恐らくあなたの元ネタ本は北島万次とか大貫、中野等あたりだろうけど、
あの人たちは例によって自虐史観で朝鮮側に都合の悪いことは伏せたりするから
信用しちゃダメだよ。
2016/04/07 (Thu) 12:53:22
186 : 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 3e7a-vHhq)[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 21:16:19.57 ID:p2vKvtG+0.net [8/9回]
>>185
秀吉は唐入り(明侵略)をする予定だったんだよ・・・
なのに、明側の最初の防衛拠点である山海関にも到達できなかった
そういう状況で、
「攻撃の限界点を越えた」もクソもないんだよ・・・
対して、明軍がロジスティクスをちゃんと構築していたことは、
慶長の役で、
日本軍が籠城していた半島南端の沿岸部に、3方面同時攻撃をおこなったことからも明らかだったりする
2016/04/07 (Thu) 12:57:42
指摘したい
>186は相変わらず文禄と慶長の役を流れを理解していない。
186は明軍崇拝の気があるようだが、
日本軍も慶長の役で10万近い軍勢を右軍と左軍に分けて、
全羅道と忠清道に進軍し、連絡を密に取り合いながら拠点や敵部隊を掃蕩している。
隠蔽、偏向、嘘を入れている中野等氏の著作が専門書扱いされている現状は
多くの人々が文禄・慶長の役が無知だという重大な問題である。
なんで歴史漫画はたくさんあるのに朝鮮出兵を描いた漫画は無いんだ?
http://www.logsoku.com/r/2ch.sc/poverty/1458949963/
2016/04/07 (Thu) 13:04:00
最後に
61 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 967a-sWz4):2016/03/15(火) 02:18:58.09 ID:lLUdCD8H0.net[1/6]
>>49
・・・愛国ブログや愛国本で、歴史を学んだ気になるのは超アウチ
せめて文庫化された、
村井章介氏の 『世界史のなかの戦国日本』を読んでみよう
文庫版では付章で、有名な泗川の戦いや露梁海戦の様子が、
島津側の史料をもとに考察されている
そして、
李舜臣が戦死した露梁海戦で、
島津側こそ大ピンチに陥っていたことがハッキリわかるよ
イアンフ、ナンキン、在日特権を暴いた関係者たちに市井の人々が
多くいたことを知らないのだろうか?
そして【専門家】【研究者】と呼ばれていた連中が
嘘をついて反日言動を繰り返してきたことも知らないのか?
文禄・慶長の役では北島万次、中野等、貫井正之は、
申し合わせたように朝鮮に不都合なことは書かないので読むときは要注意。
恫喝行為を繰り返している脇保修司 | ■↑▼ |
2014/02/09 (Sun) 19:11:19
脇保修司
過去に病院職員、ガソリンスタンドの店員、宅配業者を
恫喝していた脇保修司なる東大卒で華麗な経歴を
持つエリート社長男性。
今度は誹謗中傷サイトを作って会社を攻撃している模様。
ブログで病院恫喝を告白
http://ameblo.jp/med/entry-10062255640.html
上記の恫喝行為を繰り返している脇保修司に
中傷されている会社の訴え↓ 2013年 10月
http://www.goyo-kiki.com/pdf/20131002.pdf
2014/02/09 (Sun) 19:12:24
弊社を中傷するウェブページについて
2013年5月ころより、「御用聞き 被害者の会」というタイトルのウェブページが、
弊社を「詐欺会社」「犯罪会社」であると誹謗し、弊社について様々な事実に反する事が
らを掲載しております。
同ページは、弊社につき、
・ 詐欺で他人のお金を巻き上げて作られている
・ 内装を無償でやらせた
・ 立て替えた運営費用を返さない
・ 借金を踏み倒した
・ 詐欺被害に遭って泣いている人々がいる
・ 銀行融資を返済していない
・ 詐欺話で出資をさせた
・ 利用者を騙した
・ 会社本店を移転して税務署の管轄を変えた
・ ニセのNPOを設立して詐欺被害者の切り捨てを図っている
等、さまざまな中傷を記載しておりますが、いずれもそのような事実は全くありません。
同ページは、弊社への出資者である脇保修司氏が開設しているものですが、脇保氏は、
弊社の方針に反対意見を持ったことから弊社から離れ、挙げ句、弊社に対する業務妨害と
いわざるを得ない上記のような行為に及んでいるものです。
弊社は、経営方針に関する出資者との見解の相違という内部的な事情によって、事実に
反するこのようなウェブページが開設され、結果として皆様を混乱させてしまっているこ
とを大変申し訳なく思っております。また同ページは、弊社に協力をしてくれている方に
関しても「詐欺の片棒を担いでいる共犯者」であると記載しており、弊社は、このように
外部の支援者の方に対してまでご迷惑をおかけてしていることを甚だ遺憾に思っておりま
す。
皆様におかれましては、同ページの情報に惑わされることなく、今後もひきつづき弊社
をご支援下さいますようお願い申し上げます。
2013年10月
株式会社御用聞き 代表取締役 古市盛久
2014/07/07 (Mon) 14:33:35
、
2014/08/18 (Mon) 11:19:53
どうしても言いたくてこの場を借りさせていただきます。
恋人の借金をかえすために自分の夢を諦めて働いていました。
そんなとき、ものすごい人に出会ってしまったんです。
最初はやっぱり疑ってたんですけど、信じたら本当にお金をもらえました。
こんなことってあるんだなぁと今でも思ってます。
後悔するか、エンジョイするか、どちらがいいですか。
是非、これをみてください。
http://amae.capoo.jp/
2015/09/13 (Sun) 21:30:56
>>4
何だこれ?
もちろん始めは半信半疑でしたけど、勇気を出して連絡してみました! | ■↑▼ |
2014/09/17 (Wed) 14:58:05
この場を借りちゃいます。許してください。
今までの私は、お金がなくて本当に困っていました。
私は、ある掲示板を知って生活がかわりました。
信じれば信じるほど、お金をもらうことができました。
本当に人生がかわりました。
このチャンスを逃したら、きっと後悔します。
是非是非連絡してみてくださいね。
http://luv.boy.jp/
神様はいるんだなって思います。 | ■↑▼ |
2014/09/12 (Fri) 10:26:14
突然ごめんなさい。
給料が少なく、生活が豊かになりませんでした。
あるとき、有名な人と連絡をとる方法がわかりました。
ただ連絡するだけで、あとはどうすればいいか指示してくれました。
安心して連絡してみてください!
こんなこと私だけが知っているなんて、申し訳なくて。
今すぐあなたも連絡してみませんか?
http://hum.thick.jp/
虹色の明日へ続く。 | ■↑▼ |
2014/07/15 (Tue) 19:39:16
あまり公の場でこうしてかいたらおこる人もいるかもしれません。
母子家庭で8歳の娘がいて、何も買ってあげられなかったんです。
ある場所で噂になっていた掲示板を教えてもらいました。
最初は半信半疑だったんですけど、実際にすごい大金をもらってしまって…。
人生がかわりました。
こうしている間にも、続々連絡してお金を手に入れている人がいます。
よければ、みにいってみてください。
本当に有難うございました。
http://amae.capoo.jp/
2014/07/16 (Wed) 06:09:40
脇保修司
過去に病院職員、ガソリンスタンドの店員、宅配業者を
恫喝していた脇保修司なる東大卒で華麗な経歴を
持つエリート社長男性。
今度は誹謗中傷サイトを作って会社を攻撃している模様。
ブログで病院恫喝を告白
http://ameblo.jp/med/entry-10062255640.html
上記の恫喝行為を繰り返している脇保修司に
中傷されている会社の訴え↓ 2013年 10月
http://www.goyo-kiki.com/pdf/20131002.pdf
2014/07/25 (Fri) 01:53:47
弊社を中傷するウェブページについて
2013年5月ころより、「御用聞き 被害者の会」というタイトルのウェブページが、
弊社を「詐欺会社」「犯罪会社」であると誹謗し、弊社について様々な事実に反する事が
らを掲載しております。
同ページは、弊社につき、
・ 詐欺で他人のお金を巻き上げて作られている
・ 内装を無償でやらせた
・ 立て替えた運営費用を返さない
・ 借金を踏み倒した
・ 詐欺被害に遭って泣いている人々がいる
・ 銀行融資を返済していない
・ 詐欺話で出資をさせた
・ 利用者を騙した
・ 会社本店を移転して税務署の管轄を変えた
・ ニセのNPOを設立して詐欺被害者の切り捨てを図っている
等、さまざまな中傷を記載しておりますが、いずれもそのような事実は全くありません。
同ページは、弊社への出資者である脇保修司氏が開設しているものですが、脇保氏は、
弊社の方針に反対意見を持ったことから弊社から離れ、挙げ句、弊社に対する業務妨害と
いわざるを得ない上記のような行為に及んでいるものです。
弊社は、経営方針に関する出資者との見解の相違という内部的な事情によって、事実に
反するこのようなウェブページが開設され、結果として皆様を混乱させてしまっているこ
とを大変申し訳なく思っております。また同ページは、弊社に協力をしてくれている方に
関しても「詐欺の片棒を担いでいる共犯者」であると記載しており、弊社は、このように
外部の支援者の方に対してまでご迷惑をおかけてしていることを甚だ遺憾に思っておりま
す。
皆様におかれましては、同ページの情報に惑わされることなく、今後もひきつづき弊社
をご支援下さいますようお願い申し上げます。
2013年10月
株式会社御用聞き 代表取締役 古市盛久
ものすごいこと教えますね。 | ■↑▼ |
2014/07/13 (Sun) 23:17:36
どうしても言いたくてこの場を借りさせていただきます。
恋人の借金をかえすために自分の夢を諦めて働いていました。
そんなとき、ものすごい人に出会ってしまったんです。
最初はやっぱり疑ってたんですけど、信じたら本当にお金をもらえました。
こんなことってあるんだなぁと今でも思ってます。
後悔するか、エンジョイするか、どちらがいいですか。
是非、これをみてください。
http://amae.capoo.jp/
2014/07/14 (Mon) 04:18:46
脇保修司
過去に病院職員、ガソリンスタンドの店員、宅配業者を
恫喝していた脇保修司なる東大卒で華麗な経歴を
持つエリート社長男性。
今度は誹謗中傷サイトを作って会社を攻撃している模様。
ブログで病院恫喝を告白
http://ameblo.jp/med/entry-10062255640.html
上記の恫喝行為を繰り返している脇保修司に
中傷されている会社の訴え↓ 2013年 10月
http://www.goyo-kiki.com/pdf/20131002.pdf
これ本当なんです!本当におどろきでした! | ■↑▼ |
2014/07/08 (Tue) 16:40:47
絶対に知っておいて損はないと思います。
もう本当に小さい頃からお金には困っていました。
でもそれは、私があることを知らなかったからなんです。
最初はやっぱり疑ってたんですけど、信じたら本当にお金をもらえました。
支援するのが生きがいみたいですね!
ただでお金がもらえるなんて、こんな都合のいいことってありなんでしょうか?
もしもあなたも困っていれば、いますぐれんらくしてみてください。
http://bbc.chips.jp/
2014/07/11 (Fri) 05:35:03
脇保修司
過去に病院職員、ガソリンスタンドの店員、宅配業者を
恫喝していた脇保修司なる東大卒で華麗な経歴を
持つエリート社長男性。
今度は誹謗中傷サイトを作って会社を攻撃している模様。
ブログで病院恫喝を告白
http://ameblo.jp/med/entry-10062255640.html
上記の恫喝行為を繰り返している脇保修司に
中傷されている会社の訴え↓ 2013年 10月
http://www.goyo-kiki.com/pdf/20131002.pdf
何も知らないまま生きていくなんて、だめですよね。 | ■↑▼ |
2014/07/03 (Thu) 00:11:10
ここに書けばみてもらえると思って連絡します。
実は私、過去男に騙されて借金を作ってしまったんです。
ある場所でうわさになっていた掲示板を知りました。
もう一千万円手に入れました!
また困ったら連絡してみようと思います。
こんなにすごいこと、私一人で体験するなんてもったいないです。
もしよければ、是非みてください。
嬉しかったです。
http://chance.flier.jp/
助かりました。 | ■↑▼ |
2014/07/02 (Wed) 03:37:48
突然ごめんなさい。
いろんな人に騙されて苦しい生活ばかりだったんです。
そんなとき、ものすごい人に出会ってしまったんです。
こんなに大金をもらってもいいのでしょうか。
また困ったら連絡するように言われました。
行動するだけで、一生遊んで暮らせるほどのお金をもらうことができました。
あなたも困っていれば、いますぐれんらくしてみてください。
http://level.main.jp/